ロング・グッドバイ

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『長いお別れ』という、ハードボイルドの定番小説がある。

レイモンド・チャンドラー作、主人公はフィリップ・マーロウ、ニヒルな私立探偵だ。
[男はタフでなければ生きていけない、優しくなければ生きて行く資格がない]
という、彼の名セリフを、どこかで聞いたことがある方も、おいでかと思う。

『長いお別れ』では、彼はこう言っている。
「さよならをいうのは、わずかのあいだ死ぬことだ」
たとえば、夫がこう言ったとしたら(絶対に言いっこないが)、
彼の瞳孔が開きっぱなしになってないかどうか確かめなくてはならない。
 これは、マーロウだからこそ許されるセリフなのだ。


ハードボイルドな生き方に憬れてはいても、
私自身は「よっこらしょ」が口癖の普通のおばさんなので、駅ビルで買い物をしたときは、
キャディラックやオールズモビルではなく、路線バスに乗る。
今日もターミナルに停車中のバスに乗ったが、発車までかなり時間があった。
座席に腰かけて所在なく出発を待っていると、
はたちくらいの男の子が軽快な足取りで乗りこんできた。
ステップに立って、舗道に満面の笑みを向けている理由は、
そこで、ミルクコーヒー色の肩をした、キャミソールの女の子が
「バイバイ」と可愛く手を振っているからだ。


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二言三言のやりとりのあと、彼女はニコッとして、もう一度、
「じゃあねー」と手を上げる。
彼氏もいったんは手を振り返したものの、何か重大なことを思い出したらしい。
スカートを翻して踵をかえした彼女の背中に、「あのさー!」と呼びかけた。

 振り向いた彼女が戻って来て、ふたりはまた楽しげにひとしきり。

 これを繰り返し繰り返し、
結局二人はバスが出るまでに四、五回は「バイバイ」を言い合った!

 恋人達よ、いっそのこと「さよならは、いつも五回」と決めてしまったらどうだろう。
一生分のさよならを、そうやって使い切ってしまうのも、いいんじゃないかな――

と、買い物袋を両腕に抱え込んだおばさんは、胸の内でハードボイルド風に呟いてみた。
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by mofu903 | 2011-08-04 21:38 | 人物