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わたしのピアノストーリー (1)

  私とピアノのつきあいは、長かった。

長かった、と過去形でいうと、
「おや、今は弾かれないんですか、もったいない」とか、
「でも、長くなさっていたんじゃ、相当お上手になられたでしょ?」
とか言われるが、
これはあくまでも好意的な推測であって、
私のピアノ演奏を何度かナマで聞かされたことがある人(隣人を含む)は、
受難の日々が過ぎ去ったことを、心から喜んでいるにちがいない。

 始まりは幼稚園時代にさかのぼる。
♪小鳥がね、お窓でね♪ という、ヤマハ音楽教室の歌の出だしだけ覚えている。
 ピアノの鍵盤をさわるより、
教本のソルフェージュの挿絵に色を塗るほうが好きだった。
 音符のひとつひとつに丁寧に色を塗っているうちに、
気づくと、いつも教室は終わっていた。

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 小学校に上がると、
クラスの子のほとんどが、すでにピアノやバイオリンを習っていたので、
私も早速ピアノを買ってもらい、近くのピアノ教室に通い始めた。

 神経質そうな男の先生で、つねに眉間に縦じわを寄せ、
ド・レ・ミの位置を間違えるたびに手をビシバシ叩かれて、
私はすぐに行くのが嫌になってしまった。

 両親は、せっかく買ったピアノを無駄にするよりは、
多少月謝が高くなった方がまだまし、と考えたらしく、
音大を出たてのT先生に、週一回、家庭教師に来てくださるようお願いした。

 おっとりしたお嬢様育ちのT先生は、
前の先生と対照的に優しすぎるほど優しくて、それが私の怠けぐせに拍車をかけた。

 叱られないのをいいことに、与えられた宿題はほとんどスルー。
いつまでたっても、黄色いバイエルから先に進めなかった。 
レッスン日だったある木曜日の午後、すでに四年生になっていた私は、
その日のレッスンをどうしても回避したかった。
 先生から出された課題曲を、一小節もさらっていなかったからである。
先生のことは大好きだったので、「あらぁ…困ったことねぇ」と
落胆する顔を見たくなかったこともある。
 
 そして、なんといっても、
その日図書室で借りた『緑の宇宙人』が、ランドセルに入っていた。 
休み時間をすべて読書に費やしたせいで、物語は終盤の佳境に入るところだった。
一刻も早く結末を知りたい。
でも、家に帰ればピアノの先生が待っている……
その時、<ものすごく、いいこと>を思いついた。 
電車とバスを使って通学していた私は、帰る途中、乗り換え駅の電話ボックスに入った。

「もしもし、ママ? あのね、今、K駅にいたら、急にY子ちゃんが呼びに来たの。
 担任の先生が、私に用事があるんだって。今から一緒に学校に戻るね。
 だからピアノのレッスンは、断ってね」
言いたいことだけ言って、受話器を置く。

 心も軽く駅のベンチに引き返して、ランドセルから念願の『緑の宇宙人』を取り出し、
駅の売店で買った(校則違反)メロン味の棒付きキャンデーをなめなめ、
読みふけることしばし。

 やがて、幸せな気持ちで本を閉じ、顔を上げた私は、
猛スピードで駅前ロータリーに入って来る一台の車を目撃した。

「うちの車に似てるなぁ…」とぼんやり思っていると、目の前で車が止まり、
ドアが開き、顔面蒼白の母と、運転手さんが転がり出てきたから、びっくりした。

 結局は、子供の浅知恵である。
 私の話を不審に思った母は、すぐに学校とY子ちゃんの家に電話をしたらしい。
嘘はあっさりばれたのだが、悪いことに、ちょうどそのころ凶悪な誘拐事件があり、
小さな子を持つ親はいちように神経を尖らせていた。
「誘拐犯に脅された娘が、妙な電話をかけてきた!!」
と、母が思いこんでしまったのも無理はなく、その胸中、今となれば察して余りある。

 それこそ宇宙人(リトル・グレイ)みたいに目尻をつりあげた母親に、
手首をつかまれて家まで護送され、
大人たちから身の置きどころがないほど叱られたのはいうまでもない。

「緑の宇宙人事件」の後ほどなく、T先生が結婚されることになった。
その頃には親もさすがに、
「娘には、楽才、やる気、共にない」
と認めざるをえなかったので、後任の先生の件も丁重にお断りしたと聞いた。

 ここで、いったん、私とピアノの縁は切れる。
by mofu903 | 2011-03-05 14:45 | 回想