夜更け。不意に、しめやかな雨音に気づく。
そういえば、梅雨入りを知るのは、いつも耳からだったように思う。
梅雨入り初日の雨は、いわゆる本降りと小雨の中間だった。
白灰色の空を見上げても何も見えないが、すっかり濃くなった木立を背景にすると、
中空と地を結ぶ無数の銀糸が目に入る、そんな雨だ。
都に雨の降るごとく/ わが心にも涙ふる
心の底ににじみいる/この侘しさは何ならむ (鈴木信太郎訳)
フランスの詩人ポール・ヴェルレーヌがうたったように、梅雨どきはわけもなく感傷的になる。
私もずっと、このうっとうしい季節が苦手だったが、最近では、一年の半ばにあたるこの時期、
来たるべき猛暑を前に、心を鎮めて物思いにふけるのも悪くないと思うようになった。
一年前の今頃も、窓辺で雨を眺めていることが多かった。
声だけはお馴染みになったホトトギス、重たげに頭を垂れたあじさいは、今年も変わらない。
それにしても、一年のめぐりの早いこと。
歳を重ねるにしたがって、時の経過の速度が増すと聞いていたが、本当にその通りだった。
どうしてかしらね、と娘に聞くともなしに聞いたところ、彼女はそのからくり(?)を、
数学の先生に教えてもらったことがあるという。
ジャネの法則といって、『五歳の人間にとっての一年は、人生の五分の一であるが、
五十歳の人間にとっては、五十分の一にあたる*』というのが、その理由だそうな。
なるほど、それで一年が短く感じるわけね、と納得。
有名な学説に続けるのは気が引けるが、私なりに考えていることもある。
これには、自分の余命に対する意識が、関わっているのではないかしら、と。
若いうちは、持ち時間がたっぷりあるから、時の経過に頓着することもない。
しかし、平均寿命の半ばを過ぎる頃から残り時間が気になってきて、
とりたてて意識しなくても、一日一日が、以前より貴重に感じられてくる。
そして、貴重なものは、ことさらうつろいやすい。
ああ、もう一日が終わってしまった、また一年がたってしまった、たいしたこともしないうちに……と、
ため息まじりに振り返る。
時の経過が早く感じられるという錯覚は、そういった小さな罪悪感と、焦りと、
自己憐憫に裏打ちされているような気がする。少なくとも、私にとっては。
香水を小さなカプセルで買える店があって、いろいろな香りを試しては楽しむことができる。
ここのカタログにあった、「ステイ」という名の香水に心が惹かれた。
ステイ……たとえば、最後のばら一輪。
真紅の花びらは、雨上がりの日ざしに透けて、ベネチアのガラス細工のようだ。
梢で揺れている、夏の夕べの、うっとりするほど典雅な光。
いつまでもここに、同じ姿でとどまっていてほしい。
しかし、この願いは、いかにも儚い。
やがて日は沈んで、宵闇が降りてくる。
ひとつ屋根の下に集う家族も、「とどまって」と願う自分も、刻一刻と流されている。
かつて、思春期の息子に、聞かれたことがある。
「人って、なんのために生きてるんだろう」
私なりに考えて、こんなふうに答えた。
「『人生は生きるに足るもの』ということを知るために、生きているんじゃないかな」
数年後には娘にも同じことを聞かれ、同じように答えた。
詭弁ともいえるこの答えは、私の真情にすぎず、真実からは遠いだろう。
しかし、「時よ、止まれ」と、切に願う瞬間があることを知っているなら、
その人にとって、確かに、人生は生きるに足るものであるに違いない。
*ジャネの法則
19世紀のフランスの哲学者・ポール・ジャネが発案し、甥の心理学者・ピエール・ジャネが著作で紹介した法則。
主観的に記憶される年月の長さは年少者にはより長く、年長者にはより短く評価されるという現象を心理学的に解明した。
簡単に言えば生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する(年齢に反比例する)
<wikipediaより>
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by mofu903
| 2014-06-15 08:25
| 季節