思い込んだら
夜勤から帰宅する夫のために、いつものように朝食の準備をしていた。
その日は寝坊してしまい、<しまった!>と飛び起きて、キッチンに走った。
それからは、お湯を沸かす時間ももどかしいほどのてんてこまい。
味噌汁用のワカメをもどしーの、フライパンに卵を割り入れーの、
オーブントースターにウィンナーを並べーの……
一応、体裁を整えたところに、玄関で夫の「ただいまー」の声。
われながらジャストタイミング、とにんまりしながら、
ご飯をよそおうと炊飯器のふたを開けた時、ありゃ?と思った。
さっき、食器棚から出して目の前に置いたはずの、夫の茶碗がない。
ばたばたしていて、無意識に別のところに置いたのかしら。
その辺をざっと目で探したが、見当たらない。
キッチンでの自分の動線を思いつく限りたどってみたが、やっぱり無い。
うろうろしているところに現れた夫にも、捜索に加わってもらった。
ダイニング、リビング、納戸(行った覚えがない)、ベランダ(全く行った覚えがない)、
レンジの中、冷蔵庫の中――ナイ。
珍しく空腹を忘れている夫と二人で、躍起になってさがしまわったが、ついに見つからなかった。
忽然と姿を消した藍色の縞模様の茶碗。
四次元に落ちたか、さもなければ、例の、「イタ神」の仕業だということで、ついにあきらめ、
とにかく代わりのお茶碗を出そうと食器棚を開けたら……
アッタ。
前の晩、洗って収めた場所から1ミリも動かずに、厳然として、そこに。
手にしたものをちょっとその辺に置く。
そのあと、どこに置いたか忘れてしまう、ということが、最近、ちょくちょくある。
しかし、初めから出してもいないものを、
「確かにそこに置いた」と思い込んでしまうのは、脳の老化が進んだ証拠だろう。
それとも、老化のレベルは現状維持でも、新しいバリエーションが派生したということだろうか。
これはよく知られた話だが……
アニメ『巨人の星』では、主題歌の出だし部分の、
「♪お~も~い~こんだ~ら~しれん~の~み~ち~を~」
(思い込んだら試練の道を) とともに、
主人公が重たそうな地ならしローラーを必死になって引っ張っているシーンが映し出される。
このため、この地ならしローラーの正式名称が、「コンダーラ」(重いコンダーラ)である、
と思い込んでいる人が結構いるらしい。
実は私も、ガチガチの思い込み人間である。
この思い込みのせいで、
我ながら、つくづく「バカだなぁ」とあきれるような出来事をいくつもやらかしている。
たとえば…
はじめての引っ越しをして、すぐのことだ。
そこは、人声も車の音もめったにしないような、閑静な住宅街。
しかし、夜になると、隣家から奇怪な声が響いてくることに気づいた。
誰が笑っているのかしらないが、その耳障りな声は、まるで笑い袋そっくりだった。
そのうちに、声が「カトちゃんケンちゃん」というお笑い番組の時間帯にかぶっている、
と思い当った。
(自分ではその番組を見たこともないのに、どうしてそう思ったのかは謎だ)。
そうか!お隣のご主人がこの番組のファンで、大爆笑してるんだわ。
見たところ物静かで上品な老紳士なので、
あのすさまじい笑い声を発する方とは、とても想像できなかったが、
たいてい、人は見かけによらないものだ。
どうよ、私の推理力は?と家族にも自信満々で語って聞かせた。
そして、隣のおじいさんに会ってあいさつを交わすたびに、
「カトちゃんとケンちゃん、どっちのファンですか?」と聞きたくなる自分を抑えていた。
そんなある夜、家の近くを散歩していて、例の笑い声を聞いた。
それはいつにも増して強烈で、あたりにギャ~ッハッハ~と響き渡っている。
(今日は、「『カトちゃん』の日だったかしら…?)と不審に思いながら家の前まで来て、
その声の出どころがお隣でないことに、はたと気付いた。
だって、お隣さんは前の日、避暑に行くといって、奥さんが挨拶に来られたもの。
よくよく耳を凝らすと、声は、いっぽん裏の通りから聞こえてくるではないか。
たどっていくうちに、ギャ~ッハッハ~の声はますます大きくなり、ますます怪しげに、狂気さえ帯びてきた。
高台にある家の庭先に、金網が張ってあって、夜目にも白い物がいる。
それが声を限りにわめいている。
ドキドキしながら近寄って行くと、びっくりするほど大きな、アヒルだった。
ギャ~ハッハッハ~!
ハ~ハ~ハ~……と、声が反響した。
面と向かって馬鹿にされたような気がして、私は肩を落として踵を返した。
思いコンダーラを引きずった後の脱力感は、半端ない。
by mofu903
| 2012-06-22 21:19
| 不思議